昭和42年01月17日 朝の御理解



 どうにも出来ない問題を、一生懸命に神様にお縋がりをするという事は、その問題そのものはおかげにならなくても、その事によって信心を体得し、その事によって力を受けて行くという事。例えば、大きな岩なら、岩に向かってその岩を動かそうとしても、動く事はないのだけれども。それに向かって一生懸命に力んでおる時に、いつの間にか、こちらの力が出来る、こちらの腕っ節が愈々強うなっておる。
 そういう信心を、お互いさして頂くのでございますけれども。そういうどうにも出来ない事によって、信心の力を受けた、その力を、このくらいな事ならば平気で持てれると云う様な、力を頂いておるのでございますから。例えばその岩、そのものは動かなくても、手前の小さい事なら、今まで持てなかった物が、簡単に持てれる様なおかげを頂いておりながら、その時、その力を使おうとしない、惜しい事だと思う。
 どうぞ、そこんところを一つ頂き直していかなければならないと思いますね。そこんところを疎かにしたんじゃ、折角頂いておる力が、只、その大きい、どうにも出来ないという問題にだけ、取り組んだだけであって、足元の小さい問題には、取り組んでいない。信心させて頂きよると、もうこのくらいの事なら、このくらいな事になら、もう問題ではない、このくらいな事は出来る事を疎かにする。
 それでは惜しい事である。又おかげを受ける徳を受けると云う時でも、一番徳の受けやすい時に、皆んなが徳を受け様とする精進がない。何かが例えば現在の椛目の様に云うなら、今一番おかげを受けやすいところ、椛目自体がお恵みの水が引いてしまっておる様な時。今こそ私は力を受けられる時であるにもかかわらず、その力を頂かずに力を頂き難い時だけ一生懸命になっておると云った様な感じがするね、惜しいと思う。
 人間は愈々、不如意な時、不如意な時にでなからなければ、生身に、云うなら、かんなをかける様なと、生身にかんなをかける様な思いの修行が出来るもんじゃない。あの不如意な時に今まで出来なかった改まりがでけたり、今まで磨く事の出来なかったところを、磨いたりする事が出来るのである。自分の意の通りになる時に、なかなか本当の良い信心は出来るもんじゃないという事。
 自分の生身をかけられる様な思いをする時、そう云う時に、私は、本当に修行しておかなけりゃならんのだけれども、そう云う様な時に、その修行を疎かにする。これではほんとに惜しい事だと思う。おかしいね、信心の稽古をさせて頂いとって、何かちょっとした事があると、それにかまけたり、それに腰掛けたりして信心を疎かにする。そう云う時ほど信心を大事にして行かなければならない。
 力を受けると云う、徳を受けると云う事。云うなら、例えて云うならば、さあ、椛目椛目と云うて、大広間一杯に、朝の御祈念でもお参りしておる時には、云うならば百のものを百人が頂いても、一つずつしか頂けん様なもの。その例えば百人で受けられるだけのものを、十人で、もし受けたとするならば、十ずつは受けられる様なもの。その時を疎かにしておる様に思うですね。
   どうぞ。